論文 - 中村 安宏
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「即身仏」の思想-湯殿山と羽黒山の対立、神仏分離、及び岩手との関係を手がかりに-
中村安宏
岩手大学人文社会科学部宮沢賢治いわて学センター編『賢治学+』第4集 ( 杜陵高速印刷出版部 ) 78 - 100 2024年09月
学術誌 単著
湯殿山系即身仏は①なぜ、どのように生まれたのか、②そもそも彼ら当人の思想はどのようなものであったのか。①については、湯殿山と羽黒山との対立のなかで、出羽三山を天台宗で統一しようとした羽黒山側に対し、湯殿山側で真言宗色を強めていく過程で死後、作成されたものであったこと、②については、鉄門海が両山の対立を、修行や布教救済活動に使う火の、湯殿山側の方の優越の主張に結びつけるとともに、断食修行の意味づけを行なっており、生前の活動を導く思想を形成していたこと、また主に鉄竜海への考察を通して、彼らの活動の根拠には「即身仏」間の「つながり」を重視する思想もあったことなどを明らかにした。
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中村安宏, 鹿野朱里
アルテス リベラレス(岩手大学人文社会科学部紀要) ( 112 ) 19 - 29 2023年06月
その他(含・紀要) 共著・分担
『亀鏡志』は鶴岡の注連寺に祀られている「即身仏」鉄門海の座布団の下から見つかり、現在は鶴岡市郷土資料館に所蔵されている、鉄門海の思想を探るための最良の資料。読みやすさを考慮して句読点を加えたほかは、原文をそのまま翻刻している。さらに難しい字句には注釈を施し、引用経典はすべて現代語訳を付し、これまでの間違いが多い2つの翻刻についての正誤表も加えている。分担は、鉄門海と『亀鏡志』についての解説は中村安宏と鹿野朱里、翻刻の凡例は中村、翻刻文と注の作成は中村と鹿野、正誤表の作成は鹿野が担当。
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天保改革の「出版奨励」と北方各藩
中村安宏
歴史 ( 東北史学会 ) ( 140 ) 81 - 104 2023年04月 [査読有り]
学会誌 単著
従来ほとんど取り上げられてこなかった幕府天保改革の「出版奨励」について、政治史研究、思想史研究、出版史研究を活用しながら、その発令意図と、それに対して北方各藩がそれぞれ抱えていた事情の下、どのように対応したかを究明した。その結果、「出版奨励」は同時期に始まった幕府による直接「検閲」と抱き合わせの政策であり、そこには老中水野忠邦の諸藩の出版事業を幕府の「検閲」システムの下に組み込もうとする政治的意図があること、各藩の対応については、盛岡藩では「出版奨励」を利用して「寛政異学の禁」を実現しようとしたこと、弘前藩では幕府の教学に従いながらも「出版奨励」には応ぜず、自藩の藩校の整備に専念したこと、秋田藩ではもともと「寛政異学の禁」には従わなかったが、「出版奨励」と検閲に対しても危ぶみ、この政策が同藩に重くのしかかっていたことを明らかにした。
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中村安宏, 鹿野朱里
アルテス リベラレス(岩手大学人文社会科学部紀要) ( 110 ) 13 - 31 2022年06月
その他(含・紀要) 共著・分担
「即身仏」に関する従来の研究に疑問を投げかけ、これまで本格的に取り扱われてこなかった『亀鏡志』について、引用典籍の分析、平安時代の「往生伝」などに見られる焼身往生・入水往生との比較を中心に、鉄門海において、断食や土中入定は直接、庶民救済・他者救済にかかわるものではないことを論じた。また、補論では鉄門海やその門下(南海・鉄竜海など)の盛岡藩領・岩手県域における活動について、新発見の資料をもとに、その展開の主要なところを明らかにした。分担は、鉄門海の生涯・活動と思想については鹿野朱里、『亀鏡志』の思想、及び盛岡藩領・岩手県域における鉄門海とその門下の布教活動については中村安宏と鹿野が担当。
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朝鮮と日本における科挙観と中華思想-李退渓と室鳩巣を中心に-
中村安宏
退渓学論叢 ( 退渓学釜山研究院 ) ( 38輯 ) 7 - 30 2021年12月 [査読有り]
国際的学術誌 単著
ともに朱子学者であり、科挙制度に批判的でありながら、書院創設運動へと向かった李退渓と、人材推薦策を提言した室鳩巣との政策論の相違の背景に、中華とりわけ明に自己を同一化していこうとする李退渓と、中国とは距離を置く視座を保っていた室鳩巣との違いがあることを明らかにした。さらに、その違いが18世紀後半以降において広がっていく背景には、朝鮮における小中華意識の高まりと、日本における天皇の浮上、皇統意識の高まりがあることを明らかにした。
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中村安宏
日本思想史学 ( 日本思想史学会 ) ( 52 ) 56 - 72 2020年09月 [査読有り]
学会誌 単著
松本藩領貞享百姓一揆についての記録(石碑も活用)を追いながら、加助ら一揆の主導者に対する地域の人々の、近世の供養の思想と、近代の顕彰の思想とを見ることを通して、近世の仏教の役割と「民衆思想」の従来知られていなかった側面、近代の儒学の役割を照らし出そうとした。その結果、「民衆思想」は安丸良夫氏が言うような、「自己形成」「自己鍛練」だけで捉えきれるものではなく、百姓たちの、亡くなった「他者」への思慕を共有する結びつきに関わる供養の思想は、地域社会の百姓たちの心のなかに生きつづけていたこと、明治になって加助は、昌平坂学問所で学んだ儒学的知識人・武居用拙らによって自由民権運動の先駆者として顕彰されることになるが、儒学はこの運動の高まりと広がりとも無関係ではなかったことを見出した。
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盛岡藩における出版事業-盛岡・花巻・遠野-
中村安宏
岩手大学人文社会科学部宮沢賢治いわて学センター編『賢治学+』第3集 ( 杜陵高速印刷出版部 ) 27 - 36 2023年06月
学術誌 単著
2022年3月に開催された同センター第2回シンポジウム「盛岡藩の言論と出版」での講演をもとにしたもので、これまでほとんど研究されていなかった盛岡藩における出版事業に光を当てた。「盛岡藩校明義堂-作り分けられた「四書五経」」「花巻郷校揆奮場-目を付けられた活字版」「遠野郷校信成堂-偽りの整版」からなる。
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中村安宏
アルテス リベラレス(岩手大学人文社会科学部紀要) ( 103 ) 1 - 19 2018年12月
その他(含・紀要) 単著
佐藤一斎が林家塾長期に書いた『言志録』と『言志後録』について、原稿から出版に至るまでに、どの段階で、どの条文を削除挿入したり、配置を変更したり、どのように書き改めたりしているかを、青年期の思想との関わりにも注目して分析し、一斎の思想の成り立ちと変遷を探った。その結果、『言志録』では、「寛政異学の禁」の政治力による上からの強制に対し、一般人の立場から社会に感化を及ぼしていくための己の工夫が注目され、門戸を標榜し争うことが自己の心のあり方の問題に還元されて否定されていたこと、青年期と同様に国際上の道の普遍性を説いているが、考証学の流行のなかで文字にとらわれることを批判して心を尊重し、文字の違いを超えたところの道の普遍性が説かれていること、『言志後録』では教育者としての立場から、他の学ぶ者の自得が尊重され、また学の構成づけがなされていることを明らかにした。
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中村安宏
日本思想史学 ( 日本思想史学会 ) ( 50 ) 138 - 154 2018年09月 [査読有り]
学会誌 単著
宣長以後の超越者観念の展開について、国学の内部にとどまらず検討しようとした。一斎が後年、みずからの諸思想を天を軸に体系化した背景には宣長の思想があり、一斎の天は宣長の神と対決し、それを乗り越えようとするなかで形成されたものであること、すなわち、一斎は天を人間の知力を超越した存在でもあったが深慮をもち、また人の善悪への応報について厳正、特定の国だけ贔屓することはしない公平、さらには霊明なものとして信頼感をもって受けとめており、性=天を拠り所にして身体の生死を相対化する死後安心論を説いていたことなどを指摘した。
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中村安宏
アルテス リベラレス(岩手大学人文社会科学部紀要) ( 102 ) 25 - 47 2018年06月
その他(含・紀要) 単著
佐藤一斎の年譜として現在のところもっとも備わっている田中佩刀氏の「佐藤一斎年譜」(『佐藤一斎全集』第9巻所収、明徳出版社、2002年)に漏れている著述などを補うとともに、一斎の文詩集『愛日楼全集』とその諸稿本を分析して、その成果を取り入れることに主として努めた。
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検閲と幕府儒者-天保改革の文教政策-
中村安宏
歴史 ( 東北史学会 ) ( 130 ) 26 - 49 2018年04月 [査読有り]
学会誌 単著
天保改革期の検閲について、昌平坂学問所の内部資料(新資料)を活用して、統制が強化されたとする従来の研究に疑問を投げかけ、幕府儒者がかかわることになって、荻生徂徠『政談』、中井竹山『草茅危言』など政治関係のものを含む書物群「拙修斎叢書」や蘭学書が検閲を通過したこと、林家は国学書の検閲から手を引いていくことを明らかにした。
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大川真著『近世王権論と「正名」の転回史』
中村安宏
文芸研究-文芸・言語・思想- ( 日本文芸研究会 ) ( 183 ) 78 - 79 2017年03月
学会誌 単著
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桐原健真著『吉田松陰-「日本」を発見した思想家』
中村安宏
文芸研究-文芸・言語・思想- ( 日本文芸研究会 ) ( 182 ) 54 - 55 2016年09月
学会誌 単著
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若尾政希著『近世の政治思想論-『太平記評判秘伝理尽鈔』と安藤昌益』
中村安宏
文芸研究-文芸・言語・思想- ( 日本文芸研究会 ) ( 176 ) 48 - 49 2013年09月
学会誌 単著
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盛岡藩儒、照井一宅と江帾五郎の思想
中村安宏
吉田公平教授退休記念論集刊行会編『哲学資源としての中国思想-吉田公平教授退休記念論集』 ( 研文出版 ) 333 - 352 2013年03月
その他(含・紀要) 単著
盛岡藩の幕末期における、照井一宅と江帾五郎という二人の個性的な儒学者の思想を東条一堂学・後期水戸学と比較しながら解明しようとした。一宅は人間の本質を「交リ」=「互ニ厄介スル」ことに見出し、身分の上下を問わず「人ヲ服スル」ためにはどうしたらよいかを示したこと、五郎は天皇(皇統)や武威を日本の優越性の拠り所とするいわゆる日本型華夷意識を否定し、中国を劣等視せず相対化して捉えていたことを明らかにした。
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文化・文政期の学問思想-寛政文教政策、および宣長学との関連に注目して-
中村安宏
文芸研究-文芸・言語・思想- ( 日本文芸研究会 ) ( 169 ) 40 - 50 2010年03月 [査読有り]
学術誌 単著
思想史から見たとき文化・文政期はどのように特徴づけられるのか検討した。その結果、従来の林家学を尊重した「学規」がそののちの幕府教学の基本となり、考証学や詩文の流行の素地となった点、本居宣長が神々の世界を構築し、天の働きへの否定的見解を述べたのを契機に、平田篤胤・会沢正志斎・佐藤一斎において天が強く打ち出されるようになった点、宣長が、死後は黄泉に行かざるをえないと述べたのに対し、篤胤・一斎において新たな死後安心論が形成された点などを明らかにした。
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近世知識人の霊魂観-朱熹魂魄説からの逸脱-
中村安宏
季刊日本思想史 ( ぺりかん社 ) ( 73 ) 37 - 54 2008年10月
学術誌 単著
朱熹の魂魄鬼神・祖先祭祀説は徳川社会において、霊魂の滅亡を結果することが強調されて受け取られ、垂加神道家や陽明学信奉者、後期水戸学者などにより、そこから逸脱した独特な霊魂観や死生観が形成されるが、その内容について検討した。その結果、陽明学信奉者の説では、個人が超越的・根源的な存在との一体を求めるものであったのに対し、垂加神道や後期水戸学の場合、霊魂や霊魂への思いは天皇や日本に結びついていくことを明らかにした。
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中村安宏
長谷川成一監修、浪川健治・佐々木馨編『北方社会史の視座-歴史・文化・生活-』第2巻 ( 清文堂出版 ) 205 - 229 2008年02月
その他(含・紀要) 単著
北方各藩のうち、弘前藩、盛岡藩、秋田藩を取り上げ、江戸時代における三藩の儒学を相互に比較することにより、各藩の儒学の特徴を明確にしようとした。その結果、弘前藩においては素行学の展開と津軽寧親の教学振興策、盛岡藩においては儒者弾圧事件と照井一宅・江帾五郎の思想、秋田藩については仁斎学・闇斎学の展開と入江南溟・山本北山との関係に特徴が見られることを明らかにした。
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近世後期幕府儒者の思想的位置に関する研究
中村安宏
科学研究費補助金基盤研究(C)(2)研究成果報告書 1 - 40 2004年06月
その他(含・紀要) 単著
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中村安宏
アルテス リベラレス(岩手大学人文社会科学部紀要) ( 72 ) 33 - 41 2003年06月
その他(含・紀要) 単著
尾藤二洲についての論考を受けて、文化保存にかかわる天皇観・皇統意識の幕府儒者内での広がりについて解明しようとした。その結果、林述斎や佐藤一斎にとって皇統連続は、日本が伝統および外来の文化文物の保存という点において優れた場所であることを象徴的に示すものであり、今後もこれに務めていくべきことを示す指標であったことを明らかにした。
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中村安宏
日本語学 ( 明治書院 ) 22 ( 6 ) 4 - 5 2003年05月
学術誌 単著
日本人の中国認識は江戸時代において18世紀半ばを境に大きく変化する。この時期日本では、荻生徂徠が奨励したこともあり、各地に漢詩のサークルがむすばれ、中国の盛唐詩をまねした詩を作るなど、中華崇拝が流行するとともに、それへの批判者も登場してくる。この中華崇拝批判が日本の思想にどのように表れ、どのような変化をもたらしたのかを概論した。
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江戸時代人と喪祭・霊魂
中村一基,宇佐美公生,藪敏裕,木村直弘,中村安宏,野坂幸弘,楊朝明
科学研究費補助金基盤研究(B)(2)「祖霊祭祀の日中比較研究」研究成果報告書 57 - 65 2002年03月
その他(含・紀要) 共著・分担
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尾藤二洲の天皇観・皇統意識
中村安宏
フィロソフィア・イワテ ( 岩手哲学会 ) ( 32 ) 25 - 36 2000年11月
学術誌 単著
後期水戸学や国学と対峙・対抗していた朱子学者は、天皇をどう捉えていたのか尾藤二洲を取り上げて解明しようとした。その結果、二洲は、皇統を日本の君臣関係の優秀性を示すものとしていた後期水戸学などとは異なり、道徳について普遍的な視座を保ちつつ、文化保存にかかわる天皇観・皇統意識をもっていたこと、このような天皇観・皇統意識は世界のなかにおける日本の独善的な優越性の主張と結びつくものではなかったことを明らかにした。
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1998年の歴史学界-回顧と展望-
中村安宏
史学雑誌 ( 史学会 ) 108編 ( 5 ) 143 - 146 1999年05月
学術誌 単著
日本近世の思想の項を分担し、1998年に発表された主要な著訳書・論文について紹介・論評をした。当年にあっては、分立している、いわゆる頂点思想家研究と民衆思想研究とを架橋する試みが地道に継続されていること、分野や接近の仕方を問わず思想や思想家の位置や意義を、藩や地域とのかかわりで解明しようとする論考が目立つことなどを指摘した。
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室鳩巣と朱子学・享保改革-科挙導入反対論を中心に-
中村安宏
日本思想史研究 ( 東北大学文学部日本思想史研究室 ) ( 31 ) 31 - 44 1999年03月
その他(含・紀要) 単著
日本近世の儒学の意義を政治改革とのかかわりから探る研究の一環として、鳩巣の意見書について検討した。その結果、鳩巣の、「不学」である武士を対象にし、文字や講論の場での講究よりも本性の自然な発現を重視する変容朱子学にもとづく提言が、享保改革の人材登用策に活用されていたことを明らかにした。
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中村安宏
日本思想史学 ( 日本思想史学会 ) ( 30 ) 121 - 138 1998年09月 [査読有り]
学術誌 単著
同時代人の赤穂浪士への感情に共感しつつ朱子学を布教しようとした鳩巣の変容朱子学の構造を解明した。鳩巣は、博識に流れる当時の儒者がもっていた「不学」な武士層などへの軽蔑意識を克服して、「不学」や「下賤」な人々の節義も評価していること、その際、理への明晰さを求める朱子学本来のあり方からはずれて、気概や気魄という、実践に向かう気のあり方をとりわけ重要視している点を指摘した。
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中村安宏
玉懸博之編『日本思想史-その普遍と特殊』 ( ぺりかん社 ) 273 - 289 1997年07月
その他(含・紀要) 単著
従来、独自性を見出しにくいとされてきた鳩巣の朱子学の性格について、彼が朱子学を社会にいかに普及・適応させようとしているかという点に注目して検討した。彼は一方では朱子学を、家康に採用されたものだと説いて権威づけするとともに、他方では当時の鬼神とりまく世界に根ざしつつ、そのなかでの「我」確立の思想を朱子学に材料を取りつつ説くことにより、朱子学を世俗化していた点を指摘した。
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前田勉著『近世日本の儒学と兵学』
中村安宏,高橋禎雄
日本思想史研究 ( 東北大学文学部日本思想史研究室 ) ( 29 ) 46 - 52 1997年03月
その他(含・紀要) 共著・分担
近世国家・社会の支配思想として兵学を挙げ、それとの関係で朱子学の意義を考察した同書について、朱子学把握にかかわる部分を中村安宏が、兵学把握にかかかわる部分を高橋禎雄が担当し書評した。中村は、兵学と朱子学との対立から近世思想史を捉えようとする著者の図式の明快さを評価するとともに、朱子学の拠って立つ歴史的・社会的・精神的基盤への考察の手薄さなどを問題にした。
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佐藤一斎の教化論の展開-「言志四録」を読み解きながら-
中村安宏
日本思想史研究 ( 東北大学文学部日本思想史研究室 ) ( 28 ) 24 - 36 1996年03月
その他(含・紀要) 単著
一斎の短歌「物事は己が心の照り一つ、もろ人の教へ、もの人の道」を発掘し、そのなかの「もろ人の教へ」に注目するとともに、「言志四録」の稿本分析を通じて彼の教化論の展開を追い、彼の思想を江戸後期の思想史のなかに位置づけようとした。その結果、一斎は、誰もが実践し得る心学の立場から、博学や考証学など文字上の学のもつ差別性を問題にしている点、彼の思想の本質は幕府教学の主流に対して対抗しようとしたところに見るべきである点を示した。
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中村安宏
日本思想史学 ( 日本思想史学会 ) ( 27 ) 97 - 108 1995年09月 [査読有り]
学術誌 単著
『弘道館記』作成過程の意見対立に注目して、一斎と後期水戸学者の思想構造上の相違を解明した。その結果、道徳実践の拠り所が、一斎では自己の性にあるのに対し、後期水戸学では神格や人格への報恩意識にあること、一斎にとって「皇祖」の存在は、日本にも道が存していたことを証する指標に過ぎず、国家統合の問題と結びつくものではなく、そこに後期水戸学とは異なる「皇祖」解釈があった点を明らかにした。
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藤原惺窩と林兆恩-『大学要略』をめぐって-
中村安宏
文芸研究 ( 日本文芸研究会 ) ( 138集 ) 10 - 20 1995年01月 [査読有り]
学術誌 単著
従来、惺窩が大きな影響を受けたと言われてきた中国明末の三教一致論者林兆恩との思想的相違を見ることによって、惺窩の思想の特質を解明した。その結果、惺窩は民の道徳的自発性を念頭に置いていないこと、そのため道や理についても林兆恩が身分の上下を越えての普遍性を説くのに対し、惺窩はあくまでも国際的に普遍的な方向で考えていることを明らかにした。
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幕府儒者・河田迪斎の思想的位置
中村安宏
日本思想史研究 ( 東北大学文学部日本思想史研究室 ) ( 26 ) 14 - 26 1994年03月
その他(含・紀要) 単著
ペリーとの条約交渉の書記を務め、幕末期に攘夷一辺倒の論に反対した幕府儒者・河田迪斎の思想を分析紹介した。迪斎の思想の基盤にあったのは、ひとつには古賀侗庵が積極的に唱えて学問所内に浸透し、ほかの幕府儒者も共有していた変通の理の思想であり、ひとつには師である佐藤一斎から継承した万国に普遍的な道の思想であったことを明らかにし、幕府儒者内での思想継承の一端を解明した。
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『言志耋録』の成立過程-幕府儒者・佐藤一斎の位置-
中村安宏
日本思想史研究 ( 東北大学文学部日本思想史研究室 ) ( 25 ) 1 - 17 1993年03月
その他(含・紀要) 単著
一斎の主著である「言志四録」のひとつ『言志耋録』の稿本分析を通じて、幕府儒者内における一斎の独自な位置を解明した。その結果、一斎は、朱子学を雑学へと変形させていた古賀侗庵的な立場が主流となっていくなかで、陸王学と折衷しながら心の修養の学を求めていたこと、軍艦を導入しようとする侗庵の主張が幕府儒者内でも主流となっていくなかで、西洋の模倣には批判的であったことを明らかにした。
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中村安宏
源了圓・玉懸博之編『国家と宗教-日本思想史論集』 ( 思文閣出版 ) 395 - 413 1992年03月
その他(含・紀要) 単著
師である佐藤一斎の開かれた思想からどのようにして訥庵の攘夷思想が形成されてきたのかを考察するとともに、その攘夷思想の特質を解明した。その結果、国家中心の思想が、訥庵をして師一斎の人間尊重の思想を捨てて転向させることになりつつも、彼は一面では師の思想を受け継ぎ、攘夷のイニシアチブを為政者側にではなく民の側に求めていったことを明らかにした。
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『愛日楼文詩』の考察-ある一大名により結ばれた一斎像-
中村安宏
陽明学 ( 二松学舎大学陽明学研究所 ) ( 3 ) 100 - 114 1991年03月
学術誌 単著
一斎の詩文集『愛日楼文詩』について、それを編集した若桜藩主池田定常が、一斎の稿本中からどのような文を採取し、どのような一斎像を結んでいるかを明らかにしようとした。その結果、世間の「陽朱陰王」(陽明学を信奉しながら表向きは朱子学を装っている)という悪評に対して、大学頭林述斎を羽翼するとともに、朱子学に対して誠実かつ公平である一斎を描こうとしている点を示した。
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佐藤一斎の「公平之心」
中村安宏
日本思想史研究 ( 東北大学文学部日本思想史研究室 ) ( 23 ) 13 - 27 1991年03月
その他(含・紀要) 単著
一斎の思想の核心と見られる「公平之心」に注目し、その内容を分析することを通して、一斎後年の思想を解明した。「公平之心」はそれぞれの自己に即して工夫を行う個別的な自己(他者)を認め尊重する心であるとともに、学派の相対化を実現する心であり、とりわけ陽明学への排撃が強まる時期にあって、修養の滋養源のひとつとしての陽明学を弁護し、その定着を図る心であったことを明らかにした。
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林信敬と林述斎の位置-正学派朱子学との関係より-
中村安宏
文芸研究 ( 日本文芸研究会 ) ( 124集 ) 45 - 54 1990年05月 [査読有り]
学術誌 単著
「寛政異学の禁」をめぐって、幕府の教学担当者間に対立があったことを明確にしてその対立の意味を考察し、「異学の禁」について再検討した。当時の大学頭林信敬・林述斎は、禁令を画策した朱子学者に対し、人材の育成や、現実社会に具体的に対応するための広範な学問を求める立場から批判的であり、このような彼らの思想は「異学の禁」体制を空洞化するものであった点を指摘した。
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史料紹介・佐藤一斎の講釈用『大学』書入
中村安宏
日本思想史研究 ( 東北大学文学部日本思想史研究室 ) ( 21 ) 19 - 32 1989年03月
その他(含・紀要) 単著
一斎の自筆書き入れ本を発掘翻刻し解説を施したもの。この史料は、中国儒学者の言説の引用が多い一斎の経典注釈書のなかにあって、彼の生の声を聞くことができる点で貴重であること、一斎の門下生への講釈の内容を知ることができ、江戸後期から末期にかけての陽明学運動の一端を明らかにすることができる点で貴重であることを指摘した。
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中村安宏
日本思想史学 ( 日本思想史学会 ) ( 20 ) 71 - 82 1988年09月 [査読有り]
学術誌 単著
これまで明らかにされていなかった一斎の青年期の思想について、新史料を発掘しつつ解明した。その結果、一斎は朱子学から陸王学へと関心を移していったこと、その過程で道徳的主体性を万人へと拡大し、また学派を相対化する立場を確立していったこと、その立場は朱子学という一つの学派によって上から教化しようとする「寛政異学の禁」の思想に対抗するものであったことを示した。